2008年2学期講義、学部「哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」  入江幸男
大学院「現代哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」

第8回講義 (200812月2日) 
 
前回の講義での次の質問に対する回答をいただきました。
 
■疑問1
このとき、牛は、記述とは独立に存在するものにならないだろうか。この立場は、内部実在論と両立するのだろうか?内部実在論は、概念枠組みの中で何が存在するかを語ることが出来ると主張するが、それに加えて、そのときの概念枠を超えた実在を認める立場と、概念枠を超えた実在を認めない立場に分けることが出来るのだろうか?それとも、前者は、形而上学的実在論だと言うべきだろうか。(パトナムは、これについてどのように考えていたのでしょうか? H君への質問)
 
<原田君の回答>
「『理性・真理・歴史』の中でパトナムは「(クリプキの言うような)『形而上学的必然性』は、世俗的(mundane)な科学と、指示しようとする話し手の意図についての世俗的な事実とによって説明される」(p.47/70頁)と述べています。この後には、クリプキの見解が指示の観念を前提としており、さらに、もしまさに本来的に指示であるような対応関係があるとすれば、それは指示の魔術説であると述べています。以上のことからして、ハンドアウトのp.35に書かれているように、もし「一般名を固定指示子と考える」ことが言葉と世界を繋ぐとクリプキが考えているならば、この考えはパトナムの上で述べたような最も基本的な見解と異なります。『実在論と理性』で、パトナムは、クリプキとの共通項として、「指示は社会的に確定される」(135)ことを挙げていますが、しかしこの言葉の意味は、事物の組成等は科学的に発見され、それと同時に事物を説明する記述は確かに増えていくけれども、パトナムの見解では、事物が先に与えられているのであって、記述が先に与えられているのではなく、その意味で個々人の頭の中にある概念によって指示が固定されているのではないということです。」
 
<クリプキの「牛」のような一般名は固定指示子であるという主張は、指示の魔術説であり、パトナムが批判するものである>というのが、原田君の回答です。
この回答に従うなら、「牛は動物である」は、偶然的に真である言明である、ということになるのでしょうか。パトナムがこの後、内部実在論から自然な実在論に変わるとき、「牛」を固有名のように扱うようになる可能性はないでしょうか。
 
 
 
§10 §8の宿題にもどる
「金は黄色の金属である」(145)
「金は、原子番号79の金属である」
「猫は動物である」(148)
クリプキはこれらを経験的で必然的な言明であると考える。つまり「エベレストはゴーリサンカーである」と似ている。
 
§8での宿題はこうである。
  「金は黄色である」
  「猫は動物である」
これらの言明は、経験的で必然的な言明であるが、これらは「エベレストはゴーリサンカーである」とはことなり、同一性言明(identity statement)ではない。
問題は、これを何らかの同一性言明の省略表現と見なすのか、それとも同一性言明ではないものとして理解するのかである。
 
前に引用した以下の箇所について、クリプキは次の注をつけている。
 
「おそらく、若干の「一般」名(「馬鹿な」「太った」「黄色い」)は性質を表している(66) だが、牛であることが、つまらない意味で性質とみなされる場合を除けば、「牛」や「虎」のような一般名は、重要な意味では性質を表してはいない。」(151)
 
注66「「純粋な性質」あるいはフレーゲ流の内包によって私が意味するものに対して、何らかの規準をあたえるつもりはない。言わんとしているものの、疑う余地のない例をみつけることは難しい。黄色性は間違いなく対象の歴然たる物質的性質を表しており、先の金についての議論に関連して要求された意味における性質と見なすことができる。しかしながら、実際上それは、自分自身の中に一定の指示的要素を全くもたないわけではない。というのも、筆者の見解では、黄色性は黄色の視覚印象によって感覚される対象の外的な物理的な性質として選び出され、固定的に指示されるからである。それはこの点で、何と言っても自然種名辞に似ている。他方、感覚それ自身の現象学的な特性は、ある純粋な意味における与件的性質と見なすことができる。おそらく、これらの問題についての私の態度はかなり漠然としたものであるが、これ以上の正確さはここでは不必要だと思われる。」(訳227-228
 
■残された疑問:述語についてのクリプキの見解
 クリプキが、上記のような述語をどのように理解していたのか。あるいは、クリプキを離れて、同一性言明の形式を取らない必然的な言明を、どのように理解すべきか。あるいはどのようにその必然性を説明することが出来るのか?これは、今後の私の、あるいは皆さんの課題とします。
 
 
§11 クリプキの議論からのクワイン批判
 
■クリプキの議論からのアプリオリな知識についての見解
クリプキの分類によると、アプリオリな言明とは、主語と述語の結合が事実ではなくて、定義にもとづくものである。そして、アプリオリな知識には、二種類ある。
 
(1)主語と述語の結合が略号ないし同義語を与える定義に基づく言明は、アプリオリで必然的、つまり分析的である。
  (2)主語と述語の結合が固有名および一般名の指示を固定する定義に基づく言明は、アプリオリで偶然的である。
 
先週見たように、同義語を与える定義ないし意味の説明は、言語の内部で循環する可能性があるので、それを避けるには、言語の外部、世界に出てゆく必要がある。それは指示を固定する定義によって可能になる。したがって、(1)が可能であるためには、(2)の言明、ないし指示を固定する定義が可能でなければならない。
(ただし、この見解は、クリプキ自身が述べていることではありません。)
 
■クワイン批判2
 言語が可能であるならば、言語が世界と繋がっているはずであり、指示を固定する定義が成立しているはずである。その定義が成立しているならば、アプリオリ言明(少なくともアプリオリで偶然的な言明)が成立しているはずである。
 
■クワインからの予想される反論とそれへの批判
このようなクワイン批判に対しては、クワインからの次のような反論が予想できる。
 
反論1:<我々は、直示によって語の指示対象を固定することはできない。それは『言葉と対象』でガヴァガイの議論が示したことである。指示の「不確定性」ないし「不可測性」を克服できない限り、語の指示を固定する定義は不可能である。>
 
反論2:<指示を固定する定義は、世界が言明とは独立に存在することを前提している。しかし何が存在するかは、言語に相対的である。世界は言明から独立には存在していない>
 
反論1への批判:<クワインは、場面文を言語の意味の単位とする。文を意味の基本とすることは、文の発話における焦点の違いを、意味の違いとは見なさないということである。もし「(質問発話を除く」あらゆる発話は、それを答えとすると意図の関係において意味を持つ)という主張が正しければ、クワインの主張は間違いである。>(もっとも、これだけでは、まだ語の指示を固定する定義が可能であるということの証明にはならない。)
 
反論2への批判:<語の指示を固定する定義は、世界が言明とは独立に存在することを、必ずしも前提しない。もし世界が言語によって常にすでに分節化されているのだとしても、新しい固有名の定義は、次のようにして可能である。それは、直示ないし記述を含む直示によって成立する。その場合、世界の中にすでに存在している対象に、固有名を当てるのではなくて、固有名の定義によって、固有名と同時に対象が成立する。たとえば、牧場に沢山の牛がいて、その一頭を指差して、「あの牛をトムと名づけよう」といったとする。「あの牛」という表現によって一頭の牛を指示する。あるいは「時刻toにおいて場所p0にいる牛を、トムと名づけよう」という。このとき、時刻t0において場所p0に牛がいないことがありえるし、また別の牛がいることもありえる。しかし、この世界で時刻t0に場所p0にいた牛をトムと名づけたのである。そのことによって、その牛はこの世界に存在するようになる。もちろん、それによってこの世界の牛の頭数が一頭増えたのではない。しかし、このトムは、この命名によって存在するようになるのである。(これは矛盾しているだろうか?しかし、これを矛盾しないような仕方で説明する認識論と存在論が必要なのである。)>
 
■コメント
クリプキの『名指しと必然性』では、分析的言明について多く語られていないので、いわゆる「論理的に真である言明」の分析性についてのクワインの批判を、検討することは出来なかった。それについては、その後の議論を紹介しながら、行ないたい。
クリプキの議論から引き出せるのは、<定義による言明のアプリオリ性>と<同一性言明における言明の必然性>の分析だけである。<定義によるのではない言明のアプリオリ性>、<同一性言明ではない言明の必然性>の可能性を検討する必要があるだろう。
 
 
         §12 定義のアプリオリ性と問答
 
■指示を固定する定義のアプリオリ性と問答
指示を固定する定義の文が発話されるときに、つねにそれが定義の発話として発話されるわけではない。
「ニクソンは1970年のアメリカ大統領である」
これが、アプリオリなのは、この言明によって、ニクソンという固有名が誰を指示するのかを学習した人間にとってである。ニクソンを1970年以前から知っていた人間にとっては、この言明はアポステリオリである。この違いは、次のような問答に現れる。
 
「ニクソンとは誰のことですか」
   「ニクソンとは、1970年のアメリカ大統領です。」
   「ニクソンとは、1970年のアメリカ大統領であった人物です。」
上の問の答えは、つねに(つまり、質問者にとっても、返答者にとっても、あるいは第三者にとっても)アプリオリな偶然的言明である。
 
「ニクソンは、1970年に何をしていましたか」
   「ニクソンは、1970年のアメリカ大統領でした」
 
上の問の答えは、「ニクソン」の定義によって、ニクソンを1970年のアメリカ大統領として知っていた者が答えるときには、彼にとってアプリオリな言明である。そうでないものが、このように答えるとすれば、それは経験的な言明である。上の問いを問うた者は、「ニクソン」を1970年のアメリカ大統領であるという定義ではなく、別の定義によって学んでいるはずであるから、質問者が、この答えを得たときには、この答えは伝聞によるアポステリオリな言明として得られる。
 
語の指示を固定する定義の文の発話であっても、問答のコンテクストが異なれば、アポステリオリにも、アプリオリにもなる。
 
 
■問「指示を固定する定義の中の「1970年のアメリカ大統領」は、単称確定記述の「指示的用法」(ドネラン)であり、経験的言明としての「ニクソンは1970年のアメリカ大統領である」のなかの「1970年のアメリカ大統領」は単称確定記述の「帰属的用法」(ドネラン)である、といえるだろうか?」
(ちなみに、ある同一の文の言明の中の単称確定記述が、「指示的用法」で用いられている場合と、「帰属的用法」で用いられている場合がある。その区別は、問答のコンテクストによって成立する。)
 
指示を固定する定義において使用される確定記述が「指示的用法」であるとしても、これは同一性言明ではない。
  「ニクソンは、1970年のアメリカ大統領である」
において「1970年のアメリカ大統領」が指示的用法で使用されているとすると、それはある対象を指示することになる。「この世界での1970年のアメリカ大統領」という記述であることになる。もしこの言明が同一性言明であるとすると、偶然的ではなくて、必然的に真である言明となる。クリプキがいうように、<同一性言明は、もし真であるとすれば、必然的に真であるような言明である>だからである。
しかし、そうではないとすれば、ここでの「ニクソン」は固定指示子ではないことになる。つまり、語の指示を固定する定義の言明においては、非定義項の指示が固定されるのだが、しかし、まだそれは固定指示子にはなっていない。
 
 
■分析的な言明と問答
  「123×3はいくらか?」
「123×3=369」 
 
これの答えを計算して知るときには、アプリオリな言明である。そして、クリプキがいうように、計算機で計算して知るときには、アポステリオリな言明である。
 
この場合、アプリオリか、アポステリオリかの違いは、それがどのような問に対する答えであるかとは関係ない。むしろ同じ問に対して答えるときの、答えの出し方の違いである。もし(クリプキが言うように)計算機で計算して得られた答えがアポステリオリであるのならば、他者に尋ねて得た答えもアポステリオリである。ただし、他者に証明を教えられて得られた知識は、アプリオリである(『メノン』に登場するメノンの召使のように。)
 
分析的言明と問答のコンテクストの関係の分析は、クリプキの議論に依拠するだけでは不十分なので、分析的言明については、来週から別途議論したい。